2013年3月21日木曜日

裸体とアートと教育と


「ダビデ像論争、世界から大反響…ふんどし協会も」という記事。
島根県奥出雲町の公園に設置されたダビデ像とビーナス像を巡り、思わぬ論争が起きているという。

二体の彫刻は奥出雲町出身の元建築会社社長が“故郷への恩返しのため”と寄贈ししたもの。町は「本物の芸術作品を鑑賞できる。ありがたい」と公園に設置。しかし、町民から「子どもが怖がる」「威圧感がある」などと苦情が寄せられたとか。「(ダビデに)下着をはかせて」という珍意見も飛び出し、大騒ぎに。

ダビデ像もビーナス像も、美術の教科書などでおなじみ。
まったく知らない作品でもないという身近さもあってか、
一流の芸術品を理解できないなんて……!”と、
呆れたり嘆いたりする声も多数。

全裸なのはハレンチだから、パンツなり何なりで覆ってしまおう! というのも、
ずいぶん乱暴な意見ではある。でも、「一流の芸術品だから」で済ませるのも、
それはそれで乱暴な気がするのだけれど、どうだろうか。

調べてみると、ダビデ像が全裸なのには、
相応な理由があるらしいということがわかった。
とりわけ、“割礼”の跡があるかないかは重要な問題らしく、
「聖書にもとづいたものなのではないか」という意見もあれば、
古代ギリシアの美学的理想を模倣したという見解もある。
こうした論議が起こるのも、ダビデ像が股間を丸出しにしているからであって、
布などで覆われていたら、議論のしようもない。

裸つながりでいうと、こんな話もあった。

野外彫刻に多い裸婦像は、かつて「自由」「平和」「青春」など、各時代のイデオロギーの象徴としてしばしば公共の場に置かれたが、近年ではフェミニズムの観点から「なぜ女ばかりが、しかも裸で置かれるのか」との批判を浴びることもある。(Wikipediaより

駅前や公園にさりげなく佇む彼女たちから、
そんなメッセージが発信されていたとは!
さほど気にも留めず、ぼんやり通り過ぎていたことを申し訳ない気持ちになる。

違和感を覚えるものに出会ったとき、感情の赴くままに拒否したり、
無条件に受け入れるのではなく、
“それ”が生じた経緯や環境、どんな意味を秘めているのかに思いをめぐらせてみる。
そうすれば、どんなものでも「教育上ふさわしいもの」になりうるのではないかと思う。








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